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【都市奈良 日本の集住と感染病事始め】


本日は台風北海道接近につきブログ更新が遅延、ご容赦を(笑)。
今回出張の最終日は土曜日だったので迫る台風の中、古都に足が向かった。
よく知られるように710年に日本史上で初めて「都」が造営され
いわゆる「計画都市」が出現したとされる。
関西にいれば、こういった歴史の息づかいがそのまま感じられる。
大阪のホテルを出てクルマを走らせると2時間かからずに、
こういった歴史がそのまま感じられるエリアに突入する。
大阪市内を抜けて「南阪和道」から下りたらトンネルを抜けてすぐに
「奈良盆地」の全景が目の前に広がってくる。ややクルマを走らせれば橿原神宮。
そこから数キロくらいに、いろいろな遺跡や歴史スポットが目に飛び込んでくる。
歴史好きのわたしにとっては、地名を聞いただけでもワクワク感が(笑)。
写真は橿原神宮の南神門と外拝殿内部の様子。
橿原神宮は、記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、
神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、1890年建てられた。
本殿は1855年建立の京都御所賢所(内侍所)を
神宮創建に際して移建したもの。重要文化財ということだったので、
立ち寄ってみたのですが、この写真の外拝殿までが参観限度で、
そこから先に内拝殿があり、さらに奥に通常は見えないように鎮座している。
特別の日だけに御簾越しに垣間見ることができるということ。
「畝傍山」という神話の世界の地名がごくふつうにある(笑)。
たまらないほどの歴史宝庫。日本史ごく初期の人跡があまたあった上で、
さらに周辺に「奈良の都」が存在している。
勃興期の日本の中央権力が、中国の国家権力に似せて
あらたな「中華」を樹立させようと発願し造営した「人工都市」。
そのプロセスでは「飛騨の匠」というような木造建築の技術革新集団も
この国に生まれ出たのでしょうが、最近そういえばと気付くことがある。

そのように都の造営がなされて、人口10万とも20万ともいわれる集住都市が
この国に出現したということの必然として、
伝染病とか、都市の衛生問題ということがはじまりもしただろうと言うこと。
奈良時代というのは繰り返し疫病が流行したとされますが、
それはそれまでの日本社会での集住の限界をはるかに超えた
人口の高密度集中がもたらせたことは疑いがないだろうと思われます。
日本の衛生思想の創始は6世紀に渡来した仏教の沐浴とされる。
仏教では汚れを落とすことは仏に仕える者の大切な仕事と
沐浴の功徳を説いたと言われ、多くの寺院で浴堂を構え施浴が行われた。
聖武帝の后・光明皇后は浴室(からぶろ)を建てて
千人の垢を自ら流したという伝説のある蒸し風呂まである。
さらに施薬院(せやくいん)という存在は、奈良時代に設置された
令外官である庶民救済施設・薬園。
天平2年(730年)、光明皇后の発願により、悲田院とともに創設され、
病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。諸国から献上させた薬草を
無料で貧民に施した。東大寺正倉院所蔵の人参や桂心などの
薬草も供されている。また、光明皇后自ら病人の看護を行ったとの伝説も残る。

都市と疫病対策、日本でのはじまりが奈良であるという
ごくあたりまえの事実を突きつけられた。
こういった衛生思想に関して日本は面白い発展を見せてきた国である、
という歴史事実に思いを持たされてしまった次第なのです。
建築は集住を可能にしますが、同時に衛生観念の発展も必ず随伴する。
都市計画レベル、そして個別建築レベルでどうであったか、
面白い探究テーマだと気付かされました。ふ〜〜む。

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